クラシック音楽について書くブログ

ラヴェル、作曲家としての生き様

投稿日時:2015-10-07 02:56:03

「佳人薄命」「才子多病」といいますが、人より優れた才能を持つ人間というのは、意図せずとも、その人生に大きな哀しみを背負うものです。それは彼らの一生を辿れば、明らかなことです。例えば、『ボレロ』などで知られるラヴェルは、天才の栄光と悲劇を一心に背負ったような作曲家でした。

ラヴェルの哀しみは、生まれた時から既に始まっていました。彼は生まれつき病弱な体質だったのです。しかも、家もそれほど裕福ではなかったと言われています。彼の人生のスタートダッシュは、決して楽なものではありませんでした。

しかし、それでも、幸いなことに、彼には天性の音楽の才能がありました。小さい頃からピアノを習い始め、やがてパリ音楽院に通うようになりました。ラヴェルはそこで才能を開花させ、多くの人に名を知られるようになっていったのです。

しかし、順調に見えた作曲活動も、やがて大きな壁にぶつかることになります。ローマ賞と呼ばれるフランスを留学かけた審査に何度も落選することになるのです。当時、ローマ賞は若手音楽家たちにとって登竜門のような存在でした。そのローマ賞に何度も落選するというのは、暗に実力がないと言われているようなもの。ある意味で、芸術家人生の終わりを意味していました。

しかし現実には、ラヴェルの実力が足りていなかったわけではなかったのです。実はローマ賞の審査には不正が行われていて、どうあがいてもラヴェルが受賞できないようになっていたのです。運に見放されているだけではなく、意図的な妨害まで受ける。ラヴェルの不運は相当なものでした。

しかし、ラヴェルを認める周りの助力もあって、ローマ賞の不正は暴かれ、晴れてラヴェルはローマ賞を受賞することになりました。周りを突き動かすだけの才能と人望が彼には合ったということですね。苦難はありましたが、彼はやっと天才として認められました。その後、十数年にわたって、彼は有意義な生活を送ることができました。

しかし、そうした幸せな生活は、やはり長続きしませんでした。1914年、第一次世界大戦勃発。彼はこの戦争で家族を失うことになりました。しかも、戦争では危険な役割を与えられ、何度も死ぬ目にあったと言われています。彼はこの戦争で、大きな絶望を抱いたと言われています。

しかし、それでも戦後、彼は心折れずに音楽活動を再開しました。当時流行していたジャズ・ミュージックなどの文化にも触れ、やがて名曲『ボレロ』を生み出します。『ボレロ』は今や知らない人がいないほどの名曲中の名曲。苦難の果ての栄光といいますか、この時に、ラヴェルは最大の栄光を手にすることになります。

しかし、そんな絶頂期のラヴェルの体に、作曲家としては致命的な症状があらわれ始めるのです。記憶障害と運動障害、この二つの症状によりラヴェルは、思いついた音楽を書き留められなくなってしまったと言われています。

しかし、そこは負けん気の強いラヴェルです。それでも、作曲を続けようとしました。ですが、今回ばかりはどうにもなりませんでした。思いつく音楽の数々を書き留められないことに、ラヴェルは涙を飲んだそうです。そして、その後ラヴェルは、病気の治療をするために手術を受けて、医療ミスで死亡しました。享年62才、早すぎる死でした。

彼の人生は苦難に満ち溢れた人生でした。そのため、彼のことを悲劇の作曲家と呼ぶ人もいます。しかし、彼の人生は悲劇だったのでしょうか。いくつもの悲劇を乗り越え、栄光を掴んだ彼の人生は、誰にも比べることができないほど有意義な人生だったようにも私は思います。

確かに、天才の人生は苦難の多いものかもしれません。芸術家を目指す人の人生はろくなものじゃないのかもしれません。ですが、その人が歩いた道のあとに素晴らしいものを残せたなら、その人生は幸せだったといっていいんじゃないでしょうか。ラヴェルの人生を追っていると、ふとそんなことを思います。私もまた、芸術を嗜むものとして、その生き様を見習わなければと思います。

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